投稿「師弟に関する一考察」

◆はじめに

2年前の平成25年8月に友人の問いに返答したメモ書きですが、このテーマをもう一度一から整理しなおすべきだとの考えで記したものです。
池田会長に対する絶対論、一種の神格化が現出してきたのは、昭和51年、52年ころの宗門問題を契機とする、福島副会長(当時)が発した池田先生=「師に帰命する」「『人間革命』は現代の御書である」以降ですが、特に数年前から、宗門との離別、会則、本尊問題との絡みもあってか、声高に強調されています。本来の意味は違うだろうという、誰でもわかるはずの解説を試みました。
仏法、法華経、日蓮、本尊観、学会の基本精神、広宣流布論、人間論といった広い視点で本テーマを考察すべきものと考えます。
以下のような論点です。

・本来仏法における師弟とはなにか
・法華経における師弟観の本義
・「人」と「法」の持つ意味
・師弟観の基底にあるのは自然な情愛
・牧口初代会長、戸田2代会長の時代
・池田会長の戸田会長に対する思い
・エネルギーが衰弱してくると指導性が内部指向になり易い
・世界広宣流布展望における師弟観の受容
・池田会長も元来、ご自身と会員との関係を”同心円”論的に語っている

◆本来仏法における師弟とはなにか

仏法に全く師弟論はないとは言っていません。釈尊の場合も、日蓮大聖人の場合も、十大弟子、六老僧等の弟子はいましたし、仏法の正しい継承のためにも師弟の道は大切なものとしていたことは事実です。しかし仏法の法理として師弟論を何より特別重要な要素として強調していたとまではいえないのではないかということです。
弘教のためには人の力、特にリーダーの存在が大切なことはいうまでもありません。しかし「法によって人に依らざれ」と何度も日蓮大聖人は強調されています。本尊論においては究極的には26世日寛上人は人法一箇とご教示されていますが、その他の面で人が優先するといった考えはないと思います。釈尊も日蓮もご自身を崇めよ、仏として敬えと強調している御文はないのではないでしょうか。

◆法華経における師弟観の本義

宗教の世界では教祖以外でも、通力等を現じ時々現人神、生き仏として、一時代的には人々の崇敬を集めることがありますが、歴史の評価に耐えた人はほとんどいません。釈尊も日蓮大聖人も、個人崇拝は否定されています。
仏教では、師は衆生を教化する仏、弟子は師の教えを行ずる衆生で、衆生と仏が同じ境地になることが師弟不二の本義です。
日蓮大聖人は、法華経方便品の「我もと請願を立てて、一切の衆をして、わがごとく等しくして異なることなからしめんと欲しき、我昔の所願の如き、今はすでに満足しぬ、一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」の「如我等無異」のご文について、「御義口伝」では「父(仏=師)と子(衆生=弟子)が、一体であると説かれています。ほかにも法華経には師弟の縁を説く「師弟の遠近不遠近」等の教説があります。

◆「人」と「法」の持つ意味

「人」と「法」の問題は仏教だけでなく、国家統治論、政治論、一般組織論でも基本的テーマだといえますが、実際的には歴史的に見ても、いわゆる人々による”個人崇拝”現象は、一般的にあまり良い評価を得ていません。近現代史では例示が悪すぎるかも知れませんが、日本では戦前までの天皇崇拝、ヒットラー、スターリン、毛沢東、金日成、最近ではアラブの宗教指導者等。
従って、政治の世界でも民主主義国家では、一人のカリスマ的リーダーの登場より、法の支配が常に求められています。英雄待望論は、経済的、社会的に行き詰まった時代に生じやすいと言われています。

◆師弟観の基底にあるのは自然な情愛

私は本来「師弟の道」とは、弟子が師を敬う自然な尊敬心の発露として出る言葉だと考えています。師の側が、弟子や後進の者たちに対して、師弟の道を強調することは本来の姿ではないと考えます。古来、学問、スポーツ、技芸等の世界では、欧米社会でも師弟のつながりには、そこに深い人間愛があり感銘を与えるエピソードが多くあります。それは、それなりの期間、直々に教育、薫陶を受けた師と弟子の間ではぐくまれる自然の情愛だと思います。全く相互に言葉を交わしたこともない間柄で師弟を云々するのは、無理があるように思います。
師弟の道とは、弟子から言えば師に対する報恩、感謝の気持ちが根底でしょうし、師の側にとっても、弟子の成長こそが最大の歓びであるから、相互に師弟の道として通じ合うのだと思います。
報恩抄、四恩抄では、一切衆生の恩、国の恩と並べて師の恩が説かれています。従って師弟論を云々するに当たっては、その大前提としての、感謝、報恩の念が基底だと言えます。父母への報恩の念、長幼の序、人々への感謝の気持ち、弱い者へのいたわりの心といったものも持たない人間に師弟を語る資格はないと言えましょう。常に師弟の道を強調しながら、時々自分の父親のような年代の人に向かって、傲慢な指導をしている幹部がいますが、論外です。
もちろん、直接の出会いがなくとも、哲学、思想の世界で、著作等を通してその思想家に傾倒し、師と仰ぐといった感情、思念を持つ人は、東西を問わず昔から少なからずいます。後世の若き学者などが「わが師カント」とか「ガンジーの生き方を尊び、人生の師とする」といった思いを抱くことなどです。これは人間としての鋭敏な感性でしょう。

◆三代の会長と師弟観

本来、学会の根本精神とは、”民衆救済”ですし、”立正安国”の実現ではないでしょうか。
宗教に生命力が横溢しているときは、エネルギーは外に発せられるものです。
牧口初代会長も、戸田二代会長も、広く一般学会員に対して師弟論を強調したことはないと思います。戸田会長が、牧口初代会長を師として尊敬し、獄死した師のあだを討つのだという強い信念を持って広宣流布の指揮を執られたことはその通りですが、会員に対して牧口先生を師と仰げと強調されたこともないですし、自らを広宣流布の指導者であるとは述べられましたが、ご自身が会員にとっての師であると師弟論を説いたことは全くないのではないでしょうか。
池田三代会長は、戸田先生時代に個人的にも直々の指導と教育を受けておりましたし、仕事の面でも上下の関係でしたので、師弟の思いを誰よりも強く持たれているのはごく自然です。戸田先生の一言一言をすべて実現しようと奮闘されてきたことは素晴らしいことですし、大変尊いことです。なかなかできることではありません。

◆世界広宣流布展望における師弟観の受容

私の考えは、師弟論自体が無用だとか意味がないというものではありません。師弟の道、師弟不二を仏法、学会の根本原理とまで拡大して、一般会員にまで求めるのは、観念論に過ぎてちょっと無理があるのではないだろうか、いかがなものだろうかという問題意識です。直接会って種々訓育を受けてきた私たちの世代ぐらいまでならまだ通ずるものがありますが、今の若い世代の人たちは一度も会ったこともなく、理屈や考え方としては幾分かは理解しても、実感が伴わないので、ピンと来ないというのが実態ではないでしょうか。個人崇拝が教団のエッセンスとまでなればそれはセクトということになってしまいます。それでも創価学会は財力もありますので、一定の信徒数を有する一教団として存続することはできるでしょう。しかし神格化や絶対的師弟観が教団の最重要の基軸の精神、教理であるとまでなれば、民衆救済、世界の人々を救ってゆくという、仏法本来の崇高な使命である「広宣流布」を進めてゆくことは、おそらく不可能のこととなるでしょう。教育が普及し、経済と情報が世界を駆け巡る現未来世界を想像すると、しかも多様な文化と歴史を有するさまざまな人々に対して、それを不変の真理だと求めて、広く受容されることは、ありえないと考えるからです。
もし会員の中で、若い人で、率直な思いから師弟不二がよく分からないと言う人がいたら、その人を、「仏法が分かっていない」「学会精神がない」「信仰心が足りない」と咎め説教することはできるのでしょうか。美辞麗句をならべ、声高に師弟を叫ぶ人のほうを、私は疑います。

◆池田先生と会員の関係は“同心円”

池田名誉会長も、ご自身と会員間を、師弟とする考え方を明確に否定されております。師弟という垂直的関係ではなく、同じ広宣流布という大目標に向かう同志であるという横軸的関係、同心円の関係だと述べられています。

以下の通りです。

信心において、師とは日蓮大聖人であり、人法一箇で三大秘法の御本尊になります。
(中略)
今日においては、日蓮大聖人の教えは、ことごとく御書全集として結集され、正しく理解できる条件は一切整っているわけです。しかも、その究極として三大秘法の御本尊を信仰の対象とすべきことも、私たちは皆知っているし、実践もしております。これ自体、既に、師弟不二の誤りなき道に入っていることを確信されたい。
なお、今日の時点で、私と学会員の皆さんの関係は、師弟という相対するものでなく、同じ目的に進む横隊、もしくは、あえて言えば、私を中心とする円形ということになりましょう。
ともあれ、日蓮大聖人の教え、学会精神を等しく学び、同じ自覚で、和合僧として広宣流布のために起ち上がった人は、等しく同志であり、地涌の菩薩です。その人こそ、常随給仕の人であり、師弟不二の人である。距離や、役職上の立場の相違、信心の自覚に関係がないのです。
(第三文明社刊 レグルス文庫 池田大作著「現代文明と宗教」(質問対談集)より)