管理人の個人的見解

正宗教学からの真の脱却を

学会二世として、子供の頃から学会教学=日蓮正宗教学を多少なりとも学び、それを絶対のものと信じて育ってきた者としては、そのイコール(=)が取れてしまった今となっては、どちらの教学も、単純に絶対とは言えないものだと感じています。

ただ、学会の立場としては、正宗教学に基づいた教義をいつまでも墨守しているのは筋が通らないわけですから、教義の改定は必然のものと考えます。

しかしながら、今回の改定が「その1 すっきりした。納得がいく」かどうかと言えば、それには程遠いものがあると言わざるをえないでしょう。とりわけ「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」の文言が残ったということは、正宗教学を超克したものとは言えず、その点では、「その3 中途半端、不徹底である」という主張は筋が通っているように感じます。

さて、教学部の立場からの「その2 趣旨は分かるが、拙速の感が否めない」については、十分理解できるものの、レポートを読む限りでは、教学部の見解は、執行部以上に、正宗教学、日寛教学をひきずっており、こうした発想では、どれだけ時間をかけようとも、彼らが言うような、会員を納得させる事も、他宗派等との論争に勝つ事も、到底無理なのではないでしょうか。

「その4 会員をないがしろにするご都合主義である」は、まったくその通りだと思いますが、学会のご都合主義は、今に始まった事ではありません。国立戒壇にしてもしかり、血脈相承にしてもしかりです。もっとも学会に限らず、宗教はたいていご都合主義であり、たとえば天理教など、江戸時代には仏教系と称していたのが、明治になって廃仏毀釈が起こると、自分らは神道だと言ってみたり、キリスト教にしても、ご都合主義のかたまりでありながら、二千年もの間、多くの人に信じられてきました。

時代に応じて柔軟なのがよいのか、原理原則をきっちり守り通すのがよいのか、人によって判断は分かれるかもしれませんが、私は、信仰するにしろ、拒否するにせよ、一人ひとりが主体的によく考え、選択していかないと、ただの盲信やアナーキズムに陥るだけではないかと考えます。

「相対化」は両刃(もろは)の剣

さて、学会の教義改定について、私は今のところ以下のように考えています。

私は、学会の立場も正宗の立場も必ずしも正当なものとは思っていませんが、学会が正当性を主張するのであれば、少なくとも今回の改定ではまったく不十分と考えます。日寛に代表される正宗教学を全然超克していないと考えるからです。

私の知る限りではありますが、厳密なテキストクリティーク(文献批判、史料批判)によって、正宗教学に鋭く切り込んだものとして、創価大学教授・宮田幸一氏の研究があります。

テキストクリティークとは、歴史学を研究する上で史料を用いる際、様々な面からその正当性、妥当性を検討することです。史料のなかには、往々にして全部もしくは一部が本物ではないもの、後世の加筆や偽造の入り込んだものがあり、その正当性・妥当性は、常に注意深く吟味されなければなりません。史料の内容について、有効性やどの程度信頼できるのか、どの程度の証拠能力をもつのかを評価するという手続きが必要になります。

学問と宗教は別だと言う人もいるかもしれませんが、少なくとも学問的に正当性を持たなければ宗教として信じるに値しないと私は考えます。

宮田氏は詳細かつ厳密な研究を重ね、正宗教学の唱えるものの根拠について検証しています。論文は、専門的で難解な部分も多く、私の理解の及ばないところではありますが、たとえば「弘安2年の大御本尊」「法主の本尊書写」には歴史的正当性はなく、さらには、学会会則で言うところの「日蓮本仏論」でさえ、日蓮~日興やその後数代の期間を通じて信頼するに足る文献からその論拠を見出す事はできないとしています。だとすれば、これなども、森中教学部長が述べるところの「時代的な制約のある部分」に該当するのではないかと思われ、会則の正当性に疑義が生じてくるのではないでしょうか。

ただ、これまで「絶対」としてきた事柄について、「時代的な制約のある部分」などとして相対化した事については、評価したいと思います。もっとも、こうしたレトリックは両刃(もろは)の剣となる可能性もあるので、注意が必要です。

たとえば、2002年の会則改定の際に盛り込まれた、会則

(三代会長)第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である。

なども、いずれ相対化される可能性もないとは言えないからです。
そもそもこうした改定を度々繰り返すようであれば、何も「絶対」として主張することができなくなるでしょうし、「オオカミ少年」の誹りを受けないとも限りません。

学問的成果に裏打ちされた正当性を

それはともかく、会則の第2条には「御書根本に」とありますが、この場合の御書が、いわゆる「日蓮大聖人御書全集」収録の日蓮文書(一部日興文書を含む)だとして、これに対しての厳密なテキストクリティークが必要なのではないかと考えます。宮田氏の研究によれば、全集収録の日蓮関係文書には、後世の加筆や創作によるものが少なくないと言います。

近代の歴史学の成果によれば、キリスト教の新約聖書の、たとえばパウロの書簡の中には、パウロによって書かれたものもあるものの、多くは後世の創作であることが明らかになっています。
日蓮文書についても、そのあたりを立て分けていく必要があるでしょう。もちろん、疑わしい資料は一切用いるな、と言うわけではありませんが、本尊論や本仏論など、教義の最重要部分に関わるものについては、最新の学問的成果も取り入れて、慎重に議論していくべきだと考えます。

くわしくは、

宮田幸一のホームページ

特に

『本尊問答抄』について(5)

を参照してください。


魂の独立!?

宮田氏の研究がどの程度正しいものか、私に判断する力はありませんが、こうした学問的研究ついて、十分検討し、徹底した議論を展開していく必要があるでしょう。

もちろん、都合のよい部分だけを取り上げて利用するというのではなく、学会教学にとって耳の痛い部分(たとえば本仏や本尊、御書に関する文献批判など)についてもよく吟味していく事が、本当の意味での“魂の独立”につながっていくのではないでしょうか。

私は、学会は、形の上ではほとんど日蓮正宗から独立していながら、いまだ“魂”のみは、全然独立していないように感じます。
教学的な関心の薄い会員も多いかもしれませんが、学会教学をよく学び、自分なりに考えてきた会員も少なくはないはずです。こうした人たちを馬鹿にする事は許されません。
会員は宗門問題以来、永らく教学から疎外されてきました。これを機会に、かつてのような、日常的な教学研鑽の機会が会員に広く開かれるならば、学会の自浄作用を高める事ともなり、今回の改定も、それなりに意義を持ってくるのではないかと期待するものです。