その3 中途半端、不徹底である

創価学会は日蓮正宗とは無関係の独立した教団なのだから、日蓮正宗の教義に依拠した従来の会則を変えるのは当然であるが、今回の改正では、依然として正宗教学から完全に脱しきれていない、中途半端で不徹底ではないかという意見です。

こうした意見の一例として、ネット上の掲示板に掲載されたものの一部をご紹介いたします(抜粋)。

「創価学会会則の教義条項変更に関するスレッド」より

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○今回の教義変更で、戒壇本尊本懐と、寛師教学を否定致しました。寛師は一部は正しい所もあるが、本懐論と戒壇本尊一大秘法は間違いである。一部正しいのは、念仏も真言も同じです。ですので、寛師教学は爾前経の扱い。ここで、戒壇本尊本懐を否定されてお気に召さない方は、さっさと宗門に行くべきです。更に、寛師は嫡々一人の一人とされていました。内証が大聖人と同じと言う解釈が、嫡々一人。それが邪義を唱えたと、創価学会は認めた。嫡々一人は嘘だと宣言したのと同じです。ですので、最初の興師の唯綬一人もあり得ません。興師否定がお気に召さない方は、さっさと宗門へどうぞ。

○寛師の六大秘法や一大秘法を今後は用いない。これは、日蓮正宗の邪義を捨てると言うことです。寛師は戒壇本尊を以下の様に位置づけています。就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既に是れ、三大秘法の随一なり。況んや、一閻浮提惣体の本尊なる故なり これは大聖人の仏法から逸脱した邪義です。創価学会はかって、日蓮正宗に在籍しておりました。ですので、この邪義を認める立場でした。これを認めないなら、即破門ですからね。今は破門によってそういうものに束縛されなくなったのです。ですから寛師を捨てる。これだけの話です。 
○創価学会は寛師より大聖人を選んだ。更に、戒壇本尊は、身延などの御真筆や、正しく書写された御本尊と同じだと断言致しました。ただ、戒壇本尊自体は大聖人の本物の御本尊ではあるが、大石寺と言う大法謗の地にあるので、今後は創価学会とは無縁の本尊とする。砕いて言うならこうなります。ここで創価学会には本尊を決めるに、3種類の方法があります。このままで行く。身延などの御真筆を書写して本尊とする。創価学会独自で書写をして本尊とする。以上の3つですが、戒壇本尊を拝むことは2度とありません。更には、現在拝んでいる寛師書写の本尊は、戒壇本尊とは無関係です。この点は何度も書いております。結論としては、創価学会は大聖人ご図顕と、その書写の全ての御本尊を拝む可能性があるが、戒壇本尊だけは絶対に拝まない。
○最初に、昨年11月8日の聖教新聞に、原田さんが書いておられます。
創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。したがって、会則の協議事項に言う「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。 ~引用終わり~
当然すぎるほど当然のことですが、一つだけ余分ですね。謗法の地にあるからダメ。これは大聖人の思想にはございません。本当は、日蓮正宗の影響から抜け出すためには、戒壇本尊は邪魔なんです。御書と他の資料に基づいて、キチンと破折すべきですが、会員への影響を勘案し、こういう表現なのでしょうね。少々臆病に見えます。
○日寛教学、普遍性のある部分とそうでない部分をたてわける、との事ですが、創価学会の永遠の指導者である初代、二代、三代会長の指導も、今後の時代にそぐわないと判断された場合はたてわける、或いは用いないという可能性もあるのでしょうか?例えば戸田先生や池田先生が戒壇の御本尊についての言とか。そうなってくると、創価学会の現執行部の方々の都合主義になってしまうのではないかと懸念してしまいます。今後、創価学会の首脳幹部からも師敵対の徒が出ないとも言い切れないと思っておりますので。