師弟論・管理人の個人的見解

◆池田名誉会長の“師弟観”

池田名誉会長はこれまで、さまざまな機会に「師弟」について語ってきました。それらを端的に要約する事は非常に難しいのですが、ここでは、学会の機関誌『大白蓮華』に掲載された二つの記事を、公的になされた代表的なものとして取り上げたいと思います。

●師弟不二(『大白蓮華』2006.6より引用)
仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの拠り所とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、はじめて「心の師」となる生き方が実現するのです。
言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す、「法の体現者」であり「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです。
私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生き抜かれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。これが「師弟不二」です。
常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説の如くに戦う人が、「法根本」の人です。
日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。

●法華経の精髄は「師弟」(『大白蓮華』2007.4より引用)
一般に「師」とは、より熟練した技術、より深い知識、より高い生き方、より豊かな境涯等を教えてくれる人です。人は、何らかの意味で自分を高めてくれる存在を「師」と仰ぎます。
仏法においては、師である仏は、自らが開悟した「法」に基づいて成就した尊極の人間性へと、弟子も共に高めようとします。その「法」とは、弟子たちにとって、無明によって覚知を妨げられ、経験したことのない「妙法」です。それゆえに「法とはこのようなものである」という理論的な教法や、「煩悩を乗り越えなさい」というような実践的な教法を教えられても、その教えの言葉だけでは仏の境涯が伝わるわけではありません。
むしろ、教えの言葉とともに、仏との人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる「法」を覚知することができるのです。これが「法が伝わる」ということです。
師弟の「人間」対「人間」の絆を通してのみ「法」は伝わり、「法」に基づく人間革命が可能になるのです。
仏法は人間を離れた超越的存在、神秘的な存在として「師」を立てることはありません。
◆根拠を明示する事には無理がある

上記の引用文において、池田名誉会長は、自身が会員にとっての師である、という直接的な表現はされていません。しかし、学会のさまざまな会合において、「池田先生=師」という指導は、あらゆる幹部によって徹底的になされてきました。
もっとも、前記の投稿「師弟に関する一考察」で指摘のあるように、池田名誉会長自身が、かつて

私と学会員の皆さんの関係は、師弟という相対するものでなく、同じ目的に進む横隊、もしくは、あえて言えば、私を中心とする円形ということになりましょう。

と述べていた事実はあります。とすると弟子たちの単なる勘違いなのでしょうか。それにしては、幹部が「池田先生=師」という指導をするのに対して積極的に否定し、その誤りをその都度ただしてきたという話はあまり聞いた事がありません。もし、そうしていれば、かくも声高に「池田先生=師」という指導がまかり通る事はなかったのではないでしょうか。
そして、名誉会長自身、さまざまな場において、「師匠を守るのが弟子の務め、したがって諸君は私を守れ!」といった趣旨の発言をされてきたのは、多くの会員の知るところであり、私自身も、この耳で何度となく聞いております。
会則においては、「永遠の指導者」と規定しておりますが、「池田先生=師」というのは、会員にとって当然すぎるほど当然のことであり、名誉会長自身もそのように認識していると考えるのが自然だと思います。これに異論をはさむのは難しいのではないでしょうか。
したがって、「池田先生=師」というのは、会員にとってもご本人にとっても自明の事として、以下考察していきたいと思います。

「師弟不二」の引用文の最後の部分において、名誉会長は、「日蓮仏法は、どこまでも『師弟不二』の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です」と述べておりますが、その根拠については触れていません。学術論文ではないので、いちいち文証=文献上の証拠をあげる必要はないのでしょうが、ここまで言い切るからには、何か一つくらいは文証が欲しいところです。
この発言を裏付けるような文献的、理論的根拠を探して正当化するのは、弟子の役目なのかもしれませんが、強引なこじつけや拡大解釈なしにそれを行うのは、前記の投稿にあるように、非常に無理があると私も考えます。

◆師は仏?

また、「師弟不二」の引用文では、「『法の体現者』であり『法と一体化』した『師』」云々と述べ、次の「法華経の精髄は『師弟』」の引用文では、「仏法においては、師である仏は」云々とも述べています。
これは非常に重要な発言であると思います。間接的な表現ながら、自分こそ「法の体現者」であり、「仏」であると言っているに等しいからです。私はここで、この発言を「思い上がり」とか「増上慢」と言って非難するつもりは、毛頭ありません。それどころか、これくらいの事を言う資格は、名誉会長には十分にあると思っています。
実際に、学会が真に正しい教団だとすれば、世界的にも大発展させ、数多くの民衆を導いてきた功績は、釈尊や日蓮と比較しても遜色のないものと言っても過言ではないでしょう。
ただ、名誉会長自身がよく述べる「自分は特別の存在ではない」「一庶民に過ぎない」等の発言との整合性に、弟子たちの多くは悩まされるでしょうし、直接的な表現を避けて、やや遠慮がちに、自らを仏と述べる事についてどう受け止めていけばよいのか、そのへんは、後継者の大きな課題になっていくと考えられます。
もっとも、日蓮も自らを本仏と称した事はなく、控えめに「上行菩薩の再誕」と言う一方で、「旃陀羅(せんだら)が子」という表現もあり、後継者を自任する者たちによって、後世「大聖人」「本仏」とされたわけですから、このへんも名誉会長とのアナロジーとして、弟子の取るべき道としては、名誉会長を神格化していくという選択肢も当然あってしかるべきでしょう。
もっとも、私の感覚では、たとえ刑事被告人としてでも公上対決のチャンスだと捉えていさんで出て行き、流罪・死罪に及んだ日蓮と、一度の投獄経験はあるものの、証人喚問などから逃げ回ったと批判されたりしている池田名誉会長とでは、「似て非なる」部分もあるように思われます。まあ、そのへんは、どうにでも言い繕いようはあるかもしれませんが。
誤解のないように言えば、私はあくまで一つの方法論として神格化が有効だと述べているだけであり、すっきりして納得する人もいる反面、離れていく人も少なからずいることでしょう。これにどれだけの人が納得してついていくのか、については大きな課題だと思います。それを考えれば、相対化する選択肢もないわけではないでしょう。

これについては、このサイトの掲示板に「後継者の取るべき選択肢について」として「白河上皇」さんが、

実質的な後継者が誰になるにせよ、また集団指導体制になるにせよ。彼らの取るべき道は二つに分かれるように思います。一つは、池田名誉会長が行ったように、あるいは、日蓮正宗が行ってきたように、さらに言えば、釈尊やイエスの弟子たちがやったように、先代の指導者を絶対化、神格化して、自分たちの立場の正当性を主張する道で、これは北朝鮮などもそれですね。
もう一つは、旧ソ連のスターリン批判や中国での毛沢東批判のように、偉大な指導者であった事を認めつつも、一部には誤りがあったとして相対化する道です。

という考えを述べておられますが、まことに卓見ではないかと思います。

また、私自身は「学会が真に正しい教団だとすれば」という条件も重要だと考えており、これについては、社会的、歴史的、学問的、統計的など、多方面、多角度からの、シビアな検証が必要であろうと考えます。

◆家元制度との類比~師弟が重要なのは、目的達成のための手段として

もうひとつ、私が問題だと考えるのは、師弟の道を強調し、それが仏法の精髄とまで言い切るのは、目的と手段をはき違えているのではないかということです。

投稿「師弟に関する一考察」では、

仏法の正しい継承のためにも師弟の道は大切なものとしていたことは事実です。しかし仏法の法理として師弟論を何より特別重要な要素として強調していたとまではいえないのではないかということです。弘教のためには人の力、特にリーダーの存在が大切なことはいうまでもありません。しかし「法によって人に依らざれ」と何度も日蓮大聖人は強調されています

と指摘していますが、私もその通りだと思います。
私見では、仏法の目的は、一生成仏、真理の覚知にあり、そのために、師について学ぶという事が手段として有効、または不可欠と考えられるという事ではないでしょうか。

学問、技芸、スポーツの世界で師弟関係が重視されてきた事は、前記投稿にある通りですが、だからと言って、「学問の究極は師弟にあり」などと言えば、それは明らかにおかしいでしょう。
能、歌舞伎、茶道や華道、あるいは江戸時代における囲碁・将棋、それに大相撲などは、一種の家元制度を伝統的に採用し、師から弟子への相伝、秘伝といったものが行われてきました。しかし、それらの目的はあくまで、道を究める事、上達する事、強くなる事などであって、師弟関係自体を絶対視するというものではないと言ってよいでしょう。
日蓮正宗の行ってきた「血脈相承」なども師弟の重要性を強調するものですが、それもあくまで「法」の継承に本義があったはずだと私は考えます。
師弟関係を通じて「何を」継承するのかこそが問われるべきで、師弟関係そのものをいくら絶対化しても、意味はないものと思います。
さらに言えば、釈尊や日蓮には、形の上での師はいたかもしれませんが、「心の師」はいたのでしょうか? イエスは? ムハンマドはどうだったでしょうか? 
そう考えると、師弟は目的達成のための有効な手段ではあっても、唯一絶対の方法ではない、という言い方も可能になるのではないでしょうか。

◆カトリック教会との類比~教義解釈権の問題

池田名誉会長や学会に、師弟を絶対視する権利がないわけではありません。それはローマ教皇やカトリック教会に教義の解釈権があるようなもので、多くの信者に支持されるならば、それはそれで「あり」でしょう。
実際、過去にはローマ教皇やカトリック教会が強引な解釈でもって、例えば「免罪符」問題に見られるように、世俗的な利益を貪るなどという事もしばしばあり、それがいわゆる宗教改革へとつながっていきました。
「仏法は師弟に尽きる」と解釈するのは勝手ですが、それに疑問を抱く人たちによって、「宗教改革」がなされるような事のないよう、老婆心ながら、また、はなはだ僭越ながら、注意を喚起しておきたいと思います。

◆憲法解釈問題との類比~なぜ“池田教”ではいけないのか?

師弟を強調する現在の学会のありようを見ると、憲法問題とのアナロジーを想起してしまいます。自衛隊の存在はもとより、集団的自衛権とか安保法制とか、徐々に「解釈改憲」を進めてきた保守政権のやり方にどこか似たものを感じてしまうのです。
池田本仏論は公式には否定しながら、実態としては「師弟論」を通じてそれに近い教義が説かれ、すでに学会は池田教と言っても過言ではないとさえ思えます。しかしながら、これを公然と認めれば、憲法改正を公然と主張するのと同様、非常に大きな反発がある事は明白です。
しかし、自民党の「党是」は改憲であり、時折自民党議員などがそれを主張するように、池田名誉会長の弟子たちにも、それが、師匠に対する忠誠の証ででもあるかのように、池田本仏論を主張する人たちも少なからずいるようです。

◆正直捨方便の時?

無量義経には、「四十余年未顕真実」「正直捨方便」等とあります。日蓮教学においても「発迹顕本」があります。
一つの提案として、「仮の教え、仮の姿を廃して、正体を明かし、今こそ真実の法を説くぞ!」と宣言されてはいかがでしょうか。釈尊も真実の教えを説き始めた時、多くの弟子たちが疑いを起して地獄に堕ちたとされています。それでも、真実を説く事が大事だったということです。
池田教が真実かどうかはわかりませんが、「違憲立法状態」などという中途半端な事ではなく、堂々と宣言するならば、歓喜してついていく者も、決して少数派ではないでしょう。ついてこない人が少々地獄に堕ちようと、よいではありませんか。「逆縁の功徳」によって、そうした人たちでも、いつか成仏できるはずですから。もちろん、私もかなり以前から「逆縁の徒」でありますから、どんな形であれ、どんなに遠い未来であれ、いつかすっきり成仏させていただければ、幸いというものです。