その2 趣旨は分かるが、拙速の感が否めない

実は、この改正をめぐって、改正を急ぐ学会執行部と慎重論を唱える教学部首脳との間で、以下のようなやりとりがあった事が、

【‪#‎緊急特報‬】‎創価学会教学部機密文書‬「教学部レポート」全文公開としてネット上で紹介されています(抜粋)。

◆「トラコン・ ブラックリスト‎日蓮宗」より

全文はこちら

大御本尊問題の経過について
いわゆる「本門戒壇の大御本尊」と、総本部に安置される「創価学会常住御本尊」について、最高幹部の一部が、教義的な意義の変更を強硬に推し進めています。御本尊は、根本尊敬の対象であるがゆえに、御本尊に関する教義は信仰の根本をなしています。現在、一部幹部が進めているような形で教義変更が拙速かつ拙劣に進められれば、日本でも海外でも会員の信仰が動揺し、組織に混乱が広がることは確実です。また、宗門からの攻撃にも十分な応戦ができず、学会が教義論争において敗北することは必死と考えられます。学会の存亡に関わる極めて危機的な状況にあります。
教学部では、「戒壇の大御本尊」「創価学会常住御本尊」の意義づけについては、以前から研究を進めていました。しかし、教学部としては、こうした教義の理解を徹底するには、主に以下の理由から、時間をかけて慎重に進めなければならないと考えていました。
① 学会は、教義的に宗門の伝統を受け継ぎ、いわゆる「大御本尊」を「本門戒壇の大御本尊」「出世の本懐」「一閻浮題総与」といった最重要の御本尊として位置づけしてきた。会員にも、何十年にも渡って、そうした方向で教育を徹底してきた経緯がある。
② 学会の採用している御本尊も、すべて法主による「大御本尊」の書写である。「創価学会常住御本尊」、関西の「大法興隆所願成就」は第64世日昇書写。本部の「賞本門寺戒壇正本堂建立」の御本尊は第66世日達書写。全世界のほとんどの会員は、第26世日寛上人書写の御形木本尊を受持している。信仰の実態において学会は「大御本尊」あるいは法主書写の御本尊以外は、大聖人の他の真筆本尊をふくめ、大石寺門流以外に伝わるいかなる本尊も本尊として容認してきていない。
③ 宗門を批判する際、日顕の大御本尊否定発言や、大御本尊が「正本尊」として安置されている「正本堂」の破壊を論点としてきた。とにかく、学会員が確信をもって日々の信仰実践に励めること、すなわち学会員の安心と幸福が最優先されるべきであり、総本部も御本尊も教学も、全てそのために存在するというのが教学部の真情でした。
ところが、こうした教学部側の思いは、全く受け入れられませんでした。小委員会の結論は、次のような方向で確定していたのです。
①「戒壇の大御本尊」は、もはや謗法の宗門の本尊であり、功力もなく、学会とは何の関わりもない。その意味を否定しておかねばならない。
② 総本部こそ世界広布の根本・中心であり、そこに安置される「創価学会常住御本尊」こそが「戒壇の大御本尊」に変わる新たな「大御本尊」である。
③こうした内容を、先生のご存命のうちに、先生のご意思として発表する。
しかし、無理筋の結論を導こうとしても、無理なものは無理なので、小委員会の結論は紛糾を極めました。教学部以外の5人は、論理として完全に破綻していました。率直に申せば、素人談義の域を出ず、これが学会の最高首脳の教義理解かと別の意味で衝撃を受けました。
例えば、秋谷議長は「弘安二年の御本尊については、南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御本尊であるが、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない。日寛上人より『究竟中の究竟』等宗派の確立のために確立されたとも推察される」「弘安二年の御本尊も何の徳用も働かない。・‥他宗の身延派や、中山系、京都系が保持している真筆の御本尊と同じ事になる」と主張していました。
そう主張したい気持ちは理解できますが、それでは、相伝書、相承書、日興跡条々事などを盾に宗門から攻撃されたら、どう答えるのか、また逆に、「弘安二年の御本尊」を全く認めてこなかった身延派から攻撃されたら、どう答えるのか。「大御本尊」に関する戸田先生や池田先生の発言、また教学的な主張との整合性は、どう付けるのか。不用意に教義を変更すれば、学会は四方八方から矛盾を突かれて、大混乱に陥りかねません。
宗門は、「大御本尊」について何百年にもわたる論争の蓄積があります。特に近年は、正信会との激しい論争を経験しているので、この論題について、学会が戦うのであれば、それ相応の準備が不可欠であることを訴えましたが。そうした経緯についても、ほとんど認識を持っていない様子でした。
また聖人御難事の「余は二十七年なり」という大聖人の「出世の本懐」の表明についても、谷川総長は「『出世の本懐』の意味だって変えればいいんだ。独立した教団なんだから、変えてもいいんだし、変えられるんだ。南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいいんじゃないか」と述べていました。
もちろん御書の解釈はできるにしても、御本尊の「出世の本懐」について生半可な教義理解で軽々しく決められることではありません。さらに「末法下種の三宝」についても、現在は、公式には仏宝が日蓮大聖人、法宝が三大秘法の大御本尊、僧宝が日興上人になっているのを変更するのかという議論になった際、谷川総長は「それも変えればいいんだ。何の問題ない」と述べていました。しかし、「それでは、歴代法主が僧宝であるという宗門に対して、僧宝は日興上人であると反論した学会の論拠が崩れてしまう」と申し上げると、谷川総長は「それでもいいんだ。宗門とは別の教団なんだから」という返事でした。
「過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。完全に独立した教団として出発するんだから。結論は決まっているんだ。教義なんて、それを後付けすればいいんだ」と、谷川総長は何度も繰り返していました。何でも自分たちで決められるという全能感がにじみ出ていて、何を言っても取り付く島がありません。支離滅裂な不毛な会議となりました。
また何より悲しかったのは、教学部以外の5人の方々の言葉に、会員の苦悩に対する慈悲が一かけらも感じられなかったことです。八尋弁護士や金沢総局長は「変更しても、ほとんどの会員は付いてこれるでしょう。大体は大丈夫でしょう」と言っていました。一人残らず幸福にする、絶対に退転させないというのが、池田先生の御心ではないでしょうか。八尋弁護士については、ある人に「多少の退転はやむを得ない。 9割は付いてこれる」という趣旨の発言をしていたとも聞き及んでおります。 1000万会員の1割と言えば100万人。100万人の同志を退転させ、地獄に堕とすというのでしょうか。
御本尊の問題は、いつか完全に決着をつけねばなりませんが、それをやるには1ミリの狂いもないような論理構成を考えねばなりません。本部の方針が1ミリでも狂えば、現場では10メートル、100メートルの狂いとなって大混乱を引き起こしてしまいます。
学会教学の最重要課題であるにもかかわらず、教学部を完全に排除するという異常事態が続いています。会員の疑問には、誰が答えるのでしょう。宗門との論争が起きたら、誰が戦うのでしょう。